
仙台市内のホテルから、語り部タクシーに乗ってほんの30分ほど移動した場所。神社の鳥居だけが少し小高い丘の上に残されています。

昔の風景が飾られています。

次に立ち寄ったのは荒浜小学校。上の地図は南北が逆で、日本海の海岸線からほど近い場所に位置するエリアは水没地域に丸呑みされています。今では津波の記念遺跡として残されていますが、老朽化が進むと中には入れなくなるような雰囲気でした。

実際に津波が来たのは二階までだったという印がありますが、あたり一面が水没して、海の水がどんどん押し寄せてくるなんて、そのときには屋上まで水に飲まれる可能性もあったわけで、死の恐怖と直面したことと思います。

海水の侵入が二階まで、といってもチョロチョロ浸水したというような可愛いものではなかったことは明らかです。

一階部分は一年生の教室があり、車が三台折り重なるようにして入った写真が展示されていました。恐ろしや。


二階のベランダのコンクリートの壁が内側に向かって倒れています。海水に流されてとてつもなく重いものが壁をなぎ倒したのでしょうか。

昔の校舎の風景。近隣には家が立ち並び、どこにでもありそうなのどかな小学校の風景です。

あたり一面水浸し。まだ雪の降るような寒い3月上旬に、寒くて怖かったことでしょう。

震災前の校庭の様子。

辺りの水が引くと、こんな風景だったようです。

体育館があったあたり。

外から見ると残ったようでも、被害は甚大だったようで、震災後に解体されたと書かれています。

震災後7年目となる夏(2018年)の時点では、学校の周りには緑が生えていました。でも住宅は数が今ではとても少なく、この土地にいた人は多数亡くなられたと聞きました。
復興のゼロ地点を改めて見ると、この状態から這い上がった地元の人達の努力が忍ばれます。
霞が関にいる歴代の復興大臣たちの心無い発言は、もうなんと言ったらいいのか。。桜田大臣の辞任で、これまでの大臣の失言シリーズも再び明るみにさらされていますが、「東北の方でよかった、東京だったらもっと被害が大きかった」、「人っ子一人いないゴーストタウンのようだった」、「震災復興よりも大切な○○議員」。。。あり得ません。
自己中極まりない政治家たちのことは放って置くとして、長崎でも、神津島でも、仙台でも同じものを見た気がしていて、今も昔も、時としてやってくる「まさか」という事態があるんだな、ということを感じました。自分の人生のうちに人生を根底からグラグラ揺るがすような災難に遭遇する可能性は誰にもあり、今目に見えているものにしがみついても、いずれは手放すときが来るわけです。
あらためて、天国に持っていけないものにしがみついたり、慌てふためくのはよそう、と思いました。普段与えられているものは「当たり前」で、取り上げられた瞬間に「災難だ」と思うのは間違っている気がしてきました。当然のように思えている健康や仕事や家族は、実は「丸儲け」であり、病気や災害などで失ってしまうことは単に「お返しする」ことなのかな、と。
震災から8年が経過する間に、これほどまでに緑が生い茂っていることも、また見れてよかったと思います。本当に不毛の地と化していれば草も生えなかったわけで、これはこれで大地のたくましさの象徴のように思えるのでした。